それが、親からの贈りものだった
肯定の言葉は、彼らの望むプロトタイプの自分に対してだけだった。
肯定の言葉から離れたとき、自分らしく生きていかなくては、生きられなくなる時、僕は自分で自分を承認する術をほとんど知らなかった。
肯定されることのない人格は、やがて精神を曲げることでしか適応できなくなっていった。
このクソのような世界で。
両親の肯定の言葉から離れた、本体の自分は、なんと弱々しかったことだろうか。
しかし、それでも正しさは、本体の中にあった。
暗い、自分しか味方のいない時間と空間が何年も何年も続いた。
気の遠くなるような、果てがないかのような暗闇の中だった。
僕は暗闇に適応した。
暗闇の中で、指針として信じられるのは、自分の身体と心の強度だけだった。
だから、体を鍛え、暗闇の中で確かに触れ合える痛みと肉体を求め、殴る拳を出しあった。
互いの身体と心の中に、その時間の中にだけ、本体の真実があるかのように。
そこでは、誰も敵ではなかった。
殴りあう相手でさえも。
時々、暗闇に引きずりこまれる。
いや、一日のうちの、いつもどこかに、しみついた影のように。
それは自分自身しか見えない合わせ鏡という、息苦しい地獄。
気をこらしていると…時間が流れると…いつかまた、触れ合える誰かのぬくもりや、イメージが湧き上がってくる。
そこはどこでもなく、自分自身の身体心の中から。
孤独とは、自分のことなのだ。
このクソのような世界。
このクソのような人生。
僕は呪う。
世界と自分の全てを。
しかし、呪いの隣に、いつも「生きよう」と囁きかけてくる、自分の中の、声にならない、小さな、小さな、かすかな声が聞こえてくるのだ…。
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