2014年12月14日日曜日

故「ニート 無職 集会所」

今日、試合があって、元ニート仲間が応援に来てくれて、終わった後でご飯を食べて少し話しました。
(試合は応援してくれたおかげで優勝できました ありがとうございました)

何年も前、2ちゃんのVIPのスレに「ニート 無職 集会所」というsageの常板があって、僕は書き込んではいないのだが、そこからstickamやブログをやりはじめた人が続出し、彼らとオンオフで交流を持つことになった。

今日彼と話していて、今から思えばだが、僕らの息苦しさは「中途半端な、もしくは自覚していない障害と名づけられるもの」かもしれないと思える部分があったかもしれないと思えた。

それは、元々「ニート」や「ヒキ」という問題があるというよりは
ADHDやアスペルガー傾向、依存症の無自覚、また統合失調の軽度だったり…、 そういったレッテルや名前をつけられることから外れた、拒否した、または無自覚でい続けている、そういった潜在性のある人たちがよりどころもなく集まって「ニート」のような名づけや状態に流れてきた、そういったようなことを思えるのだ。

今から思えば。

本当の問題は、自分がダメなことや社会がクソなことというより、(もちろんその両方を良しとしているから、意識が高いとかでない、普通のねらーたちなのだが)、そういった特性?のようなものを、自分自身でも、社会の中でも、誰にもどこに受け入れられていない、そういった孤独の特性を持った人たちの集まりだったような気がする。

自分でも無自覚だったり、認めたくない
「だって、だからといって認めたところで(病気や特性)、ますます悪くなるばかりじゃない(弱くなる)」と言った人がいた。
そのとおりだと思う。
現状、苦しみと孤独を抱え続けるのだ。
どこや誰のせいにしきれるわけでもなく。

今、何年もたって、社会にまぎれている人もいれば、いっそう悪くなったりして閉じこもりや音信普通の人もいる。
孤独とは、自分とも社会(他人)とも繋がれない、認められないことなのだ。

そういった寄る辺のなさがわかるからこそ、一時僕らはたまっていたりした気がする。

何もかも中途半端な障害や特性を持った自分たちは、偽らなくては存在するものとは認められない。
だから、ねらーたちは匿名だったし、いつも仮面をかぶっていて、人の前ではよく笑った。

今だから思う。
この中途半端(な生きぐるし)さは、誰が悪かった、いのだろうか。

意識なんて高くないし、自分がイノベータブルに走ろうとも思わない。
そして結局いつも思うのだ。

自分(たち)が作るしかないのだ。
それも、一人ではなく、敵(すべてを受け入れるわけではない社会)と繋がりながらも、そういった
稼ぎ方
生き方
つながり方
楽しみ方
コミュニケーションの仕方


目もくれないような小さな隅かもしれない。
けれどそうでなくては、社会に絶望しながらゆっくり死んでゆくことになる人たちもいる。