2010年10月11日月曜日

このクソのような人生

 いつも、昔から、幼少のころから、20数年間、否定の言葉とともに生きてきた。
 それが、親からの贈りものだった
 肯定の言葉は、彼らの望むプロトタイプの自分に対してだけだった。
 肯定の言葉から離れたとき、自分らしく生きていかなくては、生きられなくなる時、僕は自分で自分を承認する術をほとんど知らなかった。
 
 肯定されることのない人格は、やがて精神を曲げることでしか適応できなくなっていった。
 このクソのような世界で。
 両親の肯定の言葉から離れた、本体の自分は、なんと弱々しかったことだろうか。
 しかし、それでも正しさは、本体の中にあった。

 暗い、自分しか味方のいない時間と空間が何年も何年も続いた。
 気の遠くなるような、果てがないかのような暗闇の中だった。
 僕は暗闇に適応した。

 暗闇の中で、指針として信じられるのは、自分の身体と心の強度だけだった。
 だから、体を鍛え、暗闇の中で確かに触れ合える痛みと肉体を求め、殴る拳を出しあった。
 互いの身体と心の中に、その時間の中にだけ、本体の真実があるかのように。
 そこでは、誰も敵ではなかった。
 殴りあう相手でさえも。

 時々、暗闇に引きずりこまれる。
 いや、一日のうちの、いつもどこかに、しみついた影のように。
 それは自分自身しか見えない合わせ鏡という、息苦しい地獄。
 気をこらしていると…時間が流れると…いつかまた、触れ合える誰かのぬくもりや、イメージが湧き上がってくる。
 そこはどこでもなく、自分自身の身体心の中から。
 孤独とは、自分のことなのだ。

 このクソのような世界。
 このクソのような人生。
 僕は呪う。
 世界と自分の全てを。
 しかし、呪いの隣に、いつも「生きよう」と囁きかけてくる、自分の中の、声にならない、小さな、小さな、かすかな声が聞こえてくるのだ…。





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