試写会に行ってきました。
メディア向けで、まだ全然媒体も何も決まってませんが、とりあえず現物見てこようと。
アヒルの子 家族が監督にしたことの、問い合わせドキュメンタリーですが、昔、似たコンセプトの映画を思い出して。
村石雅也監督の「ファザーレス」です。
で、見てきました。
この手の入り込んだ映画にありがちな、椅子から立てない症状が出てて、その後少し監督に話を聞きました。
配給の人から、同時上映の「LINE」も勧められてたので、そのままいたのですが、アタマが混乱して、はじめの15分くらいで席を立ってしましました。
ごめんなさい。
で、帰ってきて、すごい辛い症状。
アタマ痛いような気持ち悪いような。
少し横になったんだけど直りませんでした。
僕は、この映画を見ていて、おそらく他の人はあまり感じないかもしれないことを思っていました。
きっと、色んな人が、色んなことを感じていたのでしょう。
家族の暴力を問い直す行為は、僕は、散々やったつもりです。
そして、すべてから回りしてきたあの感触と、「大人」の自分だけで完結している「ずるい」向き合えない態度にも、すべておぼえがあります。
あの「向き合えなさ」があって、僕は、「この家族と暮らしていくことは無理だ」と感じ、「別れ」たのです。
「別れた」とは、二度とお互いに連絡がつかないようにする、ということです。
自分自身の気持ちに向き合える家族だったら、僕の選択も違っていたかもしれない。
だけれど、このまま彼らに付き合っていると、自分自身も、いつまでたっても自分の気持ちがわからない(自立につながらない・生きていけない)と思い、脱、したのです。
その「問い直し」経験は、僕もあるし、家族への「わかってくれる」「受け入れてくれる」期待の断念はしてきたことでもあります。
そして、今の生活を継続することが、別れの延長になる自分の生活だとも思っています。
だから、その部分には、僕の琴線はあまり反応しませんでした。
「自分のことのように」というようには。
かつてのファザーレスのようには(タイミングの問題です)
わかりあえなかった家族の中には「妹」がいました。
僕は、妹とも決別し、二度と会わないつもりでいます。
彼女とも、わかりあえなかった。
と思った。
だけれど、同じ痛みを背負ってきた戦友でもあった。
ここから僕の自分語りになります。
僕が親の仕送りでワンルームでひきこもっていたころ、母親は体をぶっ壊して、死ぬかもな状態で内臓をほとんど取って透析していました。
寝たきりか車椅子状態で腕も動かせない母親を介護というか世話をしていたのは、妹でした。
僕は、空手をはじめ、やがて家族から完全に離れました。
その間、妹は高校に通い、大学に行きながら母親の世話をして、あの家で暮らしていました。
ひきこもっていたときも、何度か妹と会ったり、連絡をとっていました。
「家族のことはしょうがない」という態度や、時には僕への文句を隠しながら接していました。
(かなり、影ではうらんでいたみたいです)
父親は海外、姑は(彼女が直接的なかなりの原因ですが)ほぼ態度は変わりませんでした。
最後に、妹は銀行に就職したということを一瞬聞いて、そのまま僕は離れました。
今、彼らがどうしているのか知りません。
死んでいるのかもしれないし、それでも構わないと思っています。
しかし、この映画を見て、封印してきたことが呼ばれる、というか気づかされるのを感じました。
この映画では、監督が、兄姉親すべてに、彼らがしたこと、彼らに対する思いを訪問し、ぶつけていきます。
僕は最初に彼女の家をたずねてきた、2番目の兄貴のとこで泣きました。
この映画は、監督の「正当な(封じられてきた)暴力性」が表出されまくっています。
彼女は、凶器です。
おそらく見ればわかると思います。
刃を持って現実の壁を叩きにまわっています。
「どこまでが、壁(自分を受け入れてくれる範囲)なのか!」と。
僕は思ったのです。
「ああ、いつか、妹が僕のところへ、刃を持って殺しにくるかもしれないなあ」と。
家族に、僕は何の罪の意識もありません。
二度と会わないし、彼らがどうなろうが、知ったことではない。
僕は悪くなく、彼らがこの先どうなろうと、自業自得。
しかし、妹だけは違った。
彼女に僕はほとんど何も恨みはありません。
むしろ、同情的というか、共感するというか。
おそらくかなりAC的になっていると思いますが(その兆候はあった)、そうなっていないかもしれませんが、僕は、一方的にずっと「被害者」だったが、彼女に対しては、「加害者(抑圧を一方的に押し付ける者)」だったかもしれないなあ!と思いました。
彼女が悪いという部分は、僕はほとんど感じないし、自分より幼い妹が、自分がひきこもり、先に捨てたことで、ますます(家族の業を)背負っていることは想像に難くないでしょう。
というか、そこには目を向けないできた部分があります。
僕は、自分が彼女よりも、大切だったから。
今、彼女が何をしているのか、僕はわかりません。
正直、関心もほとんどありません。
しかし、彼女が僕に攻撃性を持っていて、それが、彼女にとって「正当な」ものであることは、自分にも想像ができます。
ある日…
ある日、何気ない晴れた日に、突然、ドアを開けたら、刃を持った彼女が立っていたら…。
僕は、どう、立っているだろう。
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そんなことを思った、上映でした。
本当LINE見れなくてすみません。
少しだけ、アタマの痛さもすっきりしたかなあ…??
監督は、僕が上記のようなことを少し感想として伝えたとき「彼女に会いに行く気持ちはないのですか?」と聞きました。
ありません。
そこは、彼女の選択に任せたいし、僕は、正直、もうかつての家族を愛していないからです。
僕は、追及者でもあるし、同時に、(社会や抑圧性を持つ)”壁”でもあるのだろうと思いました。
そんなこんなで、おそらくパワーのある映画です。
アタマがいたくなるくらいに^^