2012年9月29日土曜日

傲慢

なんでもないことです。

ここのこと、試合(空手)と仕事のことばかりで、自分を振り返るヒマもなく、明日試合なので、銭湯の湯船にゆっくりつかっていました。

水、お湯、ぬるめのお湯、交互に。 

僕の他には、一人、二人、くらいしかいませんでした。

ずっと振り返ることもなく、「ひさしぶりに落ち着いたなあ」と、ぼんやり思っていました。
身体をゆるめると、きっと心もゆるむのです。

考えていたのです。
ずっと、試合の前はいつもこんな気分だな、とか、秋のせいか、今日や昨日は、少し、色々なことを振り返ることが多くなっていたような気がします。
思い出したり。
昔の試合のことだったり。

空手、試合、子供の指導、レンタル空手家、そしてライター。
すべて、平行して、自分の満足に合わせながらすすめていくと、こういう忙しい状態になるのかな。
でも、それでいいのだ。
いいのかな。

本当の、僕の幸せって何だろうな。
僕が、死ぬまでに?「これをやったら自分を認められる」って何だろうな。

空手の大きな大会で優勝すること?
そうしたら、自分を認められて幸せ?
自分の書きたかったテーマで出版できたら幸せ?
そうしたら、自分の一生の仕事と思える?
レンタル空手家や、精神的な問題を抱える人の大会などを全国に展開したらいい??
そして顧問におさまる?
収入が安定する?
そうしたら、この世に生きてきた甲斐がある??
それとも…。

考えていて、ふと、水風呂に移動しようとしたのです。

そうしたら、隣に、おじいちゃんが自分の体を洗う席から立ち上がろうとしていました。

ゆっくり、ゆっくりと。

腰が悪いのか、ひざが悪いのか、一度、壁やひさしに手をついて、体勢を整え、ゆっくり立ち上がろうとしていました。
「転ばないのかな、大丈夫かな。この位置から、もし転びそうだったら、手をのばして支えられるかな」

おじいちゃんは転ぶこともなく、(足が細かった)、ゆっくり、体勢を戻しながら、歩いて、外に出ていきました。
「きっと、転ばないように、自分で調整して、歩いているんだ、ずっと、今までも」

そう、思ったとき、なぜか、ふと、ものすごく、涙があふれてしまいました。

僕が、体勢を支えようとしなくても、おじいちゃんは、ずっと自分で歩いていっていた。
思い起こさせたのは、障害者の人が書いた本などで、「自分で、自分の手で足で、生活して、いけることが自立で、したいこと」
と、脳性マヒだったり、車椅子の人だったり。
そういう話を聞いたこともあったか?

僕は、この手で、この足で、一人で、転ばず、自分を支え、生きていくこと、それが、生きるということではなかったか?
幸せとは??

この仕事が達成できたら、きっと幸せだろう。
あの人に愛されれば、きっと幸せだろう。
そうでなければ、幸せではない。

そうではない。

僕が、この手で、今この手のひらで、顔をおおい、熱く、冷たく、お湯が水が、自分の体を、熱っぽく濡らしてゆく。
今、水やお湯につかっていて、気持ちのいいこと。
それが、「生きている幸せ」ということではなかったか。
たった今。

小さいことを、僕は感じられない。
手のひらにすくう、お湯の温かさや、ありがたさ、生きていること。
そんな小さなことの中に「幸せ」は置かれているのではなかったか。

どうしていつも、大きな夢しか見えなくなってしまうのか。

おじいちゃんが、いなくなって一人の銭湯で少しだけ声を出して泣きました。

たった今、この瞬間、感じられなければ、「幸せ」なんて、きっと永遠に手に入らず、かげろうのように、追い求め、いつも追いかけ届かないもの。
たとえ、その地点に到達したところで、きっともっと先を求めるだろう。

きっと、一夜あけたら、いや今もうすでに、「傲慢」な自分に戻っていると思う。

そんなことを、思ったので書いてみました。


明日は試合ですね。
がんばります^^


0 件のコメント:

コメントを投稿