稽古の帰り、居候先の近くの最近いつも自主練している公園でぼーっと座って水を飲んでいた。
雨が微妙に降っていたので、鍵がかかってる管理建物の屋根の下に座ってた。
今日フェアトレの布施さんにお会いして、ほとんど横から話を聞いていた。
ブログでもプッシュしておいてなんだが、ここ数日なんとなく違和感が自分の中であった。
僕は、もともと「根無し」だった。
今は、モロにそうだ。
避難所にいる人たちもこんな気持ちなのだろうかと少しだけ思った。
おそらく、違うだろう。
彼らには、被災しても、その土地があった。
ツイッターのタイムラインでは、陸前高田や、石巻が支援対象として盛んに取り上げられてる。
次は、おそらく女川や牡鹿だろう。
手がついてないし。
だが「皆すごいね」と思うのと同時に、なんとはなしの疎外感というか、違和感も感じていた。
僕がもし、住むところが完全壊されて、仕事も持ち物もなくしてしまったら?
おそらく、空手がちゃんとできる場所というのを条件に、どこかにうつっただろう。
自分には、愛着の持てる何かは、ほぼ(自分の空手以外に)無いからだ。
土地や、その人たちへの愛着。
ホーム的なもの。
僕は、ずっとどこか憧れていた。
旅館吉田屋など、地域おこし的事業に魅かれていたのもそれだろう。
ファミリーを作りながら、道を開いてゆく。
その土地で。
だから、被災地の支援などは、僕にはどこか遠い所のように思えたのだ。
暗い公園で座っていて、地震が来た。
「このまま、死ねたら」
そのとき、ずっと同じような感覚を前から持っていたことを思い出した。
たとえば、中学の海外の寮で、夜抜け出して、ぼーっと村はずれの花畑で地平線のほうを見ていた。
そんな記憶は、いつでもあった。
「どこか…」
色んな人が、色んな土地を「復興」しようとしている。
だけど僕には、フェチじみた、かすかな憧れしかない。
帰る場所は無い。
家も無い。
満足な仕事も作れてない。
いつも一人でいた。
復興か、ドラマだね…。
「まるで”生きよう”としてるみたい」
僕は心に「復興」しなければいけないものを抱えている。
索漠とした荒野。
死へ向かう荒れ地。
そんなことを思っていた。
ツイッターのタイムラインでは各地の支援が取りざたされている。
本当にすごいね。
だけど僕は、自分の中の瓦礫とヘドロを拾わなければならない。
遠い、夜の地平線を見ながら。
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